被曝ということ ~原発の議論を超えて~ | 東進ハイスクール柏校|千葉県

ブログ

2013年 7月 10日 被曝ということ ~原発の議論を超えて~

 担任助手の松尾です。そろそろ夏休みですね。この夏が皆さんにとって素晴らしいものになりますように!

 さて、今回はそんな夏休みだからこそじっくりと読んでほしい本の紹介をしたいと思います。↓は僕の書いた書評を一部書き換えたものです。堅苦しい文体ですが、目を通してもらえると嬉しかったりします。

  

 

 ——————————————————–

 7年前の自分を思い出してみる。当時はまだ中学一年生。外見、内面、似ているところなどほとんどない。7年という時間はとても長いと思う。だが、そんな7年前から私に語りかけ続ける、一冊の本がある。

 本書は1999年に起きた東海村臨界事故における被曝患者の治療を描いたドキュメンタリーである。この事故は、端的に説明すれば、違法に簡略化されたマニュアルに従った核燃料の加工作業中に作業員計3名が被曝した、というものである。本書はその3名の中で最も被曝量が多かった患者の治療について取り上げている。

 福島第一原発事故以降にわかに市民権を獲得しつつある「被曝」という言葉に、人はどんなイメージを抱いているのだろうか。「癌など様々な健康被害を誘発する」というのが7年前の私の見解だった。そしてそれが全てだと思っていた。そんな驕りはしかし、この本によって微塵に砕かれた。

 そもそも被曝とは、人体が化学物質や放射線に曝されること全般を指す言葉である。勿論この化学物質や放射線には実に多様な種類がある。レントゲンに使用されるX線も放射線の一つだ。そして、この事故で被曝者達の身体を貫いたのは、その中でも特に危険とされる中性子線だった。

 中性子線に貫かれるとその瞬間、染色体が砕け散るという。染色体はいわば人間の設計図であり、これに基づき我々の身体では常に新しい細胞が作られ、老朽化した細胞に代わってゆく。つまり、染色体の破壊はそれ以上新しい細胞が作られないことを意味する。今ある細胞が機能している時期はまだ良い。だが、その細胞が機能を停止した後、染色体の無い身体は新しい細胞をそこに補填できない。大量の中性子線を被曝した瞬間運命づけられることとは、その身体が生きながらにして、刻一刻と、文字通り「朽ちて」いくことなのである。

 最初は受け答えもはっきりして、とても致死量の放射線を浴びたとは思えない様子でいる。だが血液の異常が確認され、皮膚も次々と剥がれ落ち、呼吸にも支障が出る。実の妹から新しい血液を作る細胞の移植が試みられたが、時間とともに機能不全に陥る。内臓の機能も低下し栄養も吸収できない。かつて皮膚だった場所からは体液があふれ出、臓器内部では大量に出血して水分が失われる。どんなにつらい状態にあっても、どんなに治療用機械に自らの身体を預けることになっても、それでもはっきり保たれてきた意識さえ、突然の心停止により奪われてしまう。蘇生は成功したものの心停止の影響で様々な臓器に影響が出る。最早為せる術は何もない。そして被曝83日目、唐突な血圧の低下とともに闘いは幕切れを迎える。

 司法解剖の結果、ほぼすべての臓器が変わり果てていた中、心臓だけは無傷であったという。83日という時間は一体どれほどの苦痛をもたらしたのだろうか。そう問うと同時にしかし、生きる希望を一度さえも捨てなかったであろうその姿を見て初読の際涙したことを、今でも鮮明に思い出す。

 医師たちの苦悩もまた、並大抵のものではなかっただろう。この患者の推定被曝量は16~20シーベルト。人が1年間に浴びることのできる限度量の2万倍にも及ぶ。勝てる見込みは限りなく薄い。前例もない。症状も悪化の一途をたどるばかりで、あらゆる処置が後手に回る。大量の機械につながれ、大量の薬で命をつないでいる患者を見て、「こんな治療を続けて誰の為になるのだろう」という疑念が頭をよぎる。そんな中でも必死に頑張る患者や家族の姿を見て「助かるのではないか」「絶対に助けたい」という希望、強い思いを捨てずに治療する。それでも結局は何もできなかった。治療チームの医師や看護師は、今でも様々に思い悩むという。

 確かに医療の敗北を嬉々として受け入れる者などいない。敗北という事実を突き付けられた時に医療チームのスタッフが抱えるやるせなさは、私のような素人には想像できないものがあるだろう。それでも昼夜問わず患者や家族のために己の全てを賭してきたチームのスタッフ全員のその姿勢に、私は純粋な感銘を受けた。

 このドキュメンタリーを読みどのような考えを持つかは、個々人によるところである。ある者は「脱原発」の必要性を再度強く確認することだろう。またある者はいつか来る医療の勝利を信じることだろう。科学技術が原子力発電の根本を変え安全性を高めることに期待をする者もいるかもしれない。だがいずれにしても、「被曝」という言葉に含意される様々な事実、それと隣り合わせの「いのち」の存在、これだけは紛れもない真実なのだと、私は信じている。

 最近原発といえば、健康被害や地方の利益(原子力発電所及びその関連施設があることで労働者の家族が移り住むようになり、結果過疎の解決などの実利を得ることのできている地域もある)ばかりが話題に登る気がする。患者や家族、医療チームが必死の思いでつなぎとめようとした「朽ちていった命」の存在をどうか思い出して欲しい。原発についての議論を耳にする度に強く思うことである。

  ——————————————————–

 

 

 冒頭にも書きましたが、この本は7年間常に僕に語りかけ続けてきます。多くの問いを投げかけてくるのです。恥ずかしながら僕は、そのどの1つにもまだ答えられていません。「読書は我々に新たな人生観を与えてくれる」とは語り古された言葉でしょう。そのような側面も勿論あると思います。しかし、今の自分には受け止めきれないほど「大きな」本を読む経験も、絶対に必要であるような気がしてなりません。

 この本の語りは現場を具体的に想起させるのに非常に長けたものであると感じています。だからこそ逆に気軽に人に勧められるものではありません。それなりの覚悟を持って読んで欲しいとさえ思います。それでも、感性豊かな中高生の時期に、どうしても一度読んで欲しいです。僕たちには受け止めきれない程に「大きすぎるもの」を、体感して欲しいのです。